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PARA

demo tape '91
Early Demo
Live At Liverpool 1990.12.13.
Live At Ritz 1991.3.17.
Live At Rattan 1991.4.1.
Live At Ritz 1991.6.17.
Live At Monster 1991.7.6.

結成
 RATIUGでの活動に目処をつけた高坂が新バンド結成に向けて、『Player』誌にメンバー募集告知を掲載。90年6月にハガキを出して掲載されたのは8月。これに応募して来たのが吉田(RATIUGの吉田とは別人)と守田のベース&ドラムのコンビ。(Metallica、Doom、Gastank、Megadeth、Skid Row 、Van Halen、Janis Joplin等が好みと書いてあった)すぐに吉田のデモテープを受け取り、ギターアレンジを施してスタジオ入り。主張の強い吉田のベースと、これまで知っていたドラマーより圧倒的にテクニカルな守田のプレイにビックリ。ついていくのがやっとの高坂。あっという間にこのメンバーで活動を続けていくことに決まった。
 デモテープに入っていた曲は5曲。このうち最初の3曲をレパートリーとし、オール・オリジナル曲でのスタートとなった。この時期高坂は、前半は第3期RATIUG、後半はWhite Pom Pomの活動と重なって、3つのバンドの掛け持ちとなり大変多忙であった。
 この時期のPARAのホームグラウンドは音楽館スタジオで、気分を変えるためやスケジュールの都合で各地を点々としていた。中心は笹塚音楽館で、その他、高田馬場、本八幡、明治通り、新宿、豊島園あたりを使用していた。後に新井薬師前のStudio Lifeや登戸のクラウドナイン等、一般のスタジオにも進出した。

初ライブ
 9月に数回のリハーサル。高坂もだいぶ慣れて、吉田と守田も高坂のアレンジを気に入り、逆に高坂のデモテープも披露し、1曲半(1曲と部分)が採用されリハーサルを重ねた。目標はもちろんライブ。年内の開催を目指した。やがて、12月に国立リバプールでの初ライブが決定。より本格的に動き出した。
 一番の問題はヴォーカル。ヴォーカル不在でライブを決定してしまうのも凄いが、宛てはあった。吉田の古い友人で先輩格の前野をゲスト的に助っ人参戦してもらうという作戦だ。助っ人なのでスタジオ代等の費用負担はなし、ヴォーカルや歌詞は自由につけて良いという条件だ。前野のスタイルはハードコア。このバンドはギター、ベース、ドラムの音量がデカいので有名だったが、生身である前野のヴォーカルがそれに負けていないのが凄まじかった。高坂には初めてのタイプでとても驚き、自分の音楽スタイルとのあまりの違いに戸惑ったが、ギターが制限されるわけではないし、ヴォーカルがいるだけで様になるので容認。こうしてPARAはスピーディーなデスメタル系バンドとなり、タイトルのなかった曲にも前野の歌詞でタイトルがつけられ、初期デモテープからの3曲と新曲1曲、高坂、前野、守田の曲が1曲ずつの計7曲でライブに挑むこととなった。
 当日、ライブ前に会場近くのスタジオで1時間だけの最後のリハーサル。高坂にはライブ当日にスタジオ入りするのも初めて。RATIUGの連中が見守る中の初ライブ。高坂は自分の実力が一番劣っているという自覚から緊張してしまい、苦い経験になってしまった。

ライブ漬け
 1991年からはライブの回数も頻繁になる。基本的に月に2回のペースでのライブと、週に3回のスタジオ(ライブのある週は2回)が活動ペースで、メンバー全員アルバイト生活で、稼いだ金はすべてスタジオ代と飲み代に消えていく生活となった。
 守田が住居近くでホームグラウンド的なRITZ、ストリップ劇場を改造したためステージが高く2階席もあったHead Power、メジャーなMonsterや20000V、屋根裏、そして吉田・前野の故郷前橋への凱旋と色々な場所で演奏した。6月のRITZでのライブは、他のバンドを見に来た帰国子女の観客が異様なテンションで盛り上がり、バンドも感激し、普段以上の熱気に包まれてのライブとなった。1991年5月のからは、最初と最後に『PARAのテーマ』を演奏するようになった。

休止〜解散
 前野が助っ人メンバーであることがバンドで最大の弱点であったが、前野のパワーとポジティブな姿勢はバンドの推進力の一つにもなっていた。吉田と前野の前橋コンビはいわば車の両輪で、PARAに欠かせないものになった。音楽的好みの合わない高坂でさえ、前野は心許せる存在で欠かせないメンバーだと感じていた。そんな中、前野は自分のバンドを本格派させるため、7月いっぱいでPARAを離れることを決意。メンバーも認める以外になく、バンド活動は一時休止ということになった。
 同時に新ヴォーカル探しが始まったが、前野に勝るインパクトのある人物とはそう簡単に巡り会わない。メンバー探しと並行して、これまでの持ち曲のレコーディングを行った。ヴォーカルなしで、マイクをドラムに3本、ギターとベースに1本ずつ使用し、一発録りでレコーディングした。
 その後、8月には新しいヴォーカル候補とスタジオ入り。大豆生田という珍しい苗字の彼は、声量や迫力は前野に一歩劣るものの、男っぽい雰囲気と、アレンジ能力、英語での作詞能力、主張する力など、申し分ない力量で、特により音楽的になることは高坂の願うところでもあった。これまでの曲の改曲し、2曲を形にして、2度目のスタジオ入りしようという時にハプニングが起きる。
 高坂が腱鞘炎でギターが弾けなくなってしまった。痛みは以前からあったものの、騙し騙し使っていたのだが、とうとうそれが悪化し、どうしようもない状態になってしまったのだ。数週間はギターを触ることも出来ず先行き不透明。完治の見込みが立たない状態に加え、仕事先の変更でのゴタゴタで、バンドを離れざるを得ない状態となった。高坂は、当初は一時的離脱と考えていたが、腕の回復の遅れと多忙が重なり、結局無念の脱退となってしまった。

その後
 高坂の腕は意外に早く回復したが、後ろめたさからメンバーと連絡はとれず、一方PARAはCORALと名を変え、再スタートを切っていた。高坂は数ヶ月後に連絡をとり、CORALのライブを見ている。ツインギターに変わり、ヴォーカルは吉田がとっていた。守田の手数の多いドラミングは相変わらずで、またPARA時代の旧曲が複数取り上げられていたのは嬉しかった。高坂の曲がまだ生きていたし、高坂の考えたアレンジをそのままにツインギターが演奏する姿は圧巻だった。ギターの一人から、「高坂のギターを参考にしている。どうしたらあんなに太い音が出せるのか?」という旨のことを聞かされ、それも嬉しかった。CORALは年末にはテレビ出演も果たしている。
 高坂は1992年末、PARAの活動から離れたので、RATIUG再結成への参加を決め、93年いっぱいまで在籍した。93年末にはジャズ・ベースを手に入れた関係で、吉田がジャズ・ベースを縦横無尽に使う姿を思い出し、PARAを懐かしみ、「PARA Medley '93」を録音した。
 前野は自分のバンドで活動していたが、CORAL後の吉田と再び活動を共にした(From My Soul)。

Imagination
 PARAの音源は1997年から98年にかけてCD化されている。高坂はそれからも数年おきに思い出し感慨にふける時があったが、2016年、久しぶりに聞いた自分の曲「Imagination」を気に入ってしまった。それまでは、自分の曲ながらPARAでは一番嫌いな曲であった。コード進行が間違っているようなアレンジに、無意味に繰り返されるアルペジオが特に嫌だった。メロディをなぞるようなギターアレンジも好きになれない要因だったが、突然新アレンジが閃いてしまったのだ。実に曲が出来てから四半世紀も経っている。
 コード進行の間違いを一部修正した以外は元のまま、アルペジオもそのまま。ギターはアコースティックでコード弾きし、前野のヴォーカルは捨ててギターで弾いていた本来のメロディをヴォーカル・ラインに。曲を作った一番最初のインスピレーションであったMagnumの「How Far Jerusalem」の歌詞をそのまま拝借するというものだ。四半世紀ぶりの新しい「Imagination」が誕生している。

ライブヒストリー
日にち 場所 ライブハウス 曲数
1990.12.13. 国立 リバプール 30人 7曲
1991.1.9. 新高円寺 RITZ 40人 7曲
1991.1.28. 新宿 Head Power 30人 7曲
1991.2.22. 新高円寺 RITZ 30人 7曲
1991.3.6. 川口 Live Club Monster 25人 8曲
1991.3.16. 新高円寺 RITZ 70人 8曲
1991.4.1. 前橋 ラタン 30人 8曲
1991.4.14. 高円寺 Live Spot 20000V 10人 7曲
1991.4.28. 神楽坂 EXPLOSION 20人 7曲
1991.5.20. 神楽坂 EXPLOSION 30人 10曲
1991.5.31. 川口 Live Club Monster 30人 11曲
1991.6.15. 下北沢 屋根裏 30人 9曲
1991.6.17. 新高円寺 RITZ 50人 11曲
1991.7.6. 川口 Live Club Monster 45人 11曲
1991.7.22. 神楽坂 EXPLOSION 40人 9曲

高坂の回想と感想(2016.12)
 PARAの音楽は当初から自分には相容れないものだった。ブルージーさは皆無で、ヴォーカル・メロディもなく、コード進行すら分からないものも多く、あまり音楽的とは言えず、ひたすらエネルギッシュにパワーの解放を求めているのみだからだ。それでもやろうと思ったのは、音楽を自分の知っている範囲だけに限定したくなかったし、得意でないジャンルに挑戦するということは自分の枠を広げることになって、知らない世界を見たり、可能性を高めたり、新たな理解が出来たりということにつながると思ったから。そしてそれは正解だった。
 まだ若かったこともあり、自分もエネルギーを持っていたし、音楽理論に基づかない音の解釈は、難しくもあったが、無限の可能性を感じさせるものでもあった。前野さんのようなハードコア・スタイルのヴォーカルは先にも後にもこの時だけだが、声を楽器と効果音のように扱い、感じたままを表現する手法は大いに勉強になった。「エネルギッシュにパワーの解放を求める」ということは、それまで理解していたものから一回りも二周りも大きな器でなければ出来ないものであった。今でもハード・コアは好きなジャンルとは言えず、その道のバンドは一つも知らない状態だが、それでも前野さんのヴォーカルは感じるものがあった。自然体ということがどういうものか、表現するということがどういうものかを教わった。素のままの姿を晒そうとするPARAと格好つけのRATIUGが、両極端に自分の限界を広げてくれたバンドといえると思う。思えば、自分はPARAの中では音楽的・理論的すぎる存在であったし、RATIUGでは自然体でアドリブ重視すぎる存在であった。その輪が小さくならないよう、両バンドが左右を引っ張ってくれたのかとすら思う。

 プレイヤーとしての技術も向上したと思う。リズム・プレイの重要さを嫌というほど分からされたし、早弾きが多かったのでピッキングやプレイのスタミナが向上した。ライブが豊富だったせいで度胸もついた。RATIUGの初ライブから1年でこれほどとは信じ難いほどだ。1年前は個人プレイが中心だったが、バンドとして合わせることに主眼を置くようになった。

 音楽的には特にコード感がない曲は苦労した。「Murder Will Out」「Doom」が代表だが、「21 Century」や「Your Pain」も単調すぎで、ギターで変化が必要だと思いつつ、上手く出来なかった。もっと大胆な発想が必要だったと思う。
 逆に「Death or Fight」や「Doom Dance」などは比較的やりやすいタイプだったのだが、それにも関わらずいまいちギターが冴えないのは、結局どの曲もそうなのだが、自信がなかったことが原因だと思う。小手先で小さくまとめるようなフレーズが多いのには、我ながらウンザリする。自信があれば、もっとどっしりと構え、シンプルに徹する、何もしないのもすることの一つ、というようなアプローチも出来たはず。自分の腕を証明しなければならないと勝手に思い込み、ちょっとしたテクニックを挟むことばかり考えていたように思う。
 吉田氏は最初のデモテープの音から存在感があり過ぎなくらいで、モロに体育会系。自分のギターで対抗出来るだろうかと思ったし、ドラムの守田氏はテクニカル。デモ音源のリズムマシンの再現は無理だろうと思っていたのに、スタジオでそれ以上を見せられた時には感動したものだ。特にバスドラの使い方等は後の曲作りにも影響を受けた。年下のせいか控え目にしていた守田氏だが、いつも感心していたものだ。これにも負けないようにと思うあまり、自分を証明して見せなければという思いを持ったのだと思う。もう少し時間が経てば、また関係性も変わっていっただろう。高坂は、新メンバーの大豆生田氏も気に入っていたので、その後別れてしまったそうだが、高坂が在籍していればまた違った展開もあり得ただろうと思う。

 それだけにバンドのやめ方は不本意で、メンバーには申し訳なく思っている。腕が腱鞘炎になったのは7月のライブの頃からで、本当はもっと前から症状が出ていたと思う。指の細かな動きがしにくくなり、当時は腕を振るのがクセのようになっていた。これがだんだんヒドくなり、病院に行った時には「絶対安静」でどうにもならなかった。しかも同じ時期に仕事先が千葉に代わり、毎朝2時間かけて電車で通うハメになってしまい、疲弊してしまったことも原因の一つ。イライラが募り、メンバーに誠意ある態度が示せなかったのが今だに心残りだ。多分、何が起こったのかよく分からないままだったのではないか。
 その後、半年程度のリハビリ期間を経た後だいぶ良くなったが、やはりPARAを続けるのには無理があったと思う。別のバンド活動をするようになったが、PARAでのエネルギッシュな毎日にはほど遠い状況で、惰性で動いている感じ。今になって考えてみると、PARAでの経験を自分の中で消化し表現できるようになるのは1994年のDark Side Moonからなのだなと思う。PARAでの影響を自覚できることは嬉しいものだ。自分の中にはないジャンルのバンドだと思いつつ始めたものが、後になって血となり肉となって自分の一部としてしっかり残っていることが実感出来るようになった。


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