1年秋の関東大会の謎

 2つの大きな謎
 1年秋の関東大会は謎が深い大会だ。明訓が決勝で赤城山を下し、翌年のセンバツ出場を決定づける大会だが、2つの大きな謎がある。おそらく作者がその後の展開を考慮せずに設定してしまった後、展開上やむを得ない状況になり、前の設定を無視する形になったのが真相だろうが、ここではあえて何とか辻褄合わせをしてみたい。

    対戦カード
1回戦 取手五 茨城 大 山 栃木
1回戦 宮浦商 埼玉 クリーン 千葉
1回戦 明 訓 神奈川 甲府学院 山梨
1回戦 黒 潮 千葉 赤城山 群馬
準決勝   Aの勝者 Bの勝者
準決勝   Cの勝者 Dの勝者
 組み合わせの謎
 まず一つ目。大会前に発表されている組み合わせと、実際に行われた試合が違うこと。右が大会前に発表された組み合わせだが、実際にはクリーンと赤城山が逆になっている。
 この年は千葉県開催の年で、地元からは2校出場しているのだが、クリーンと赤城山を逆にしたことで、1回戦で千葉同士がぶつかるという不自然な組み合わせになってしまっている。しかし作中でもクリーンと黒潮高校の試合は描かれており、7−1でクリーンが勝利している。
 大会前の扱いでは、明訓のライバルはクリーンで、甲府学院と赤城山はサブ的な扱いだった。なので、決勝で明訓とクリーンを対戦させるというのは自然の流れという感じだし、ここで作者の最初の段階での構想を推理してみたい。

 この大会の初期案
 甲府学院戦が決着した場面、微笑がスクイズをして山田が本塁へ突入し、相手捕手と激突して記憶喪失になってしまうというあのシーンだが、実は準決勝用のシナリオなのではないか?
 つまり、赤城山戦用の決着シーンではないかと思うのだ。そしてその後、記憶喪失から優勝旗が見つかる流れ、そしてクリーンを下して優勝するという文句ナシの展開となるのだ。クリーン戦の前に優勝旗が見つかるということはシナリオ的に考えにくいし、山田を記憶喪失で欠いたまま赤城山戦となると、せっかくのわびすけや国定の存在が光らない。やはり甲府学院には普通に勝って、赤城山戦で記憶喪失というのはドラマチックに思える。
 その場合、赤城山戦の明訓は、国定から微笑がスクイズを決めて勝つことになるわけだが、山田は木下には勝てなかったということになり、次回の対戦へ話しが持ち越しになることになる。
 問題点としては、上記シナリオでは甲府学院戦はオーソドックスに賀間が打たれるという決着になるだろうし、赤城山戦は、山田がバントし走力で生きるという発想もなくなってしまう。いや、山田が走力で生きた後、更に盗塁等で3塁まで進み、微笑のスクイズとホーム突入というシナリオだろうか。 

 辻褄合わせ
 なぜ発表された組み合わせと実際の対戦が違うのか?
 真相は、後のセンバツ大会の出場枠の関係であろう。作中では、優勝旗盗難の真犯人であるクリーンの教頭の目論みは、甲子園に出て学校の名を売るというものだった。センバツの出場枠の関係上、関東大会の決勝に進出した時点でほぼ甲子園出場が成ることになる。そうすると、明訓との試合結果に関わらず甲子園出場は叶い、優勝旗の騒動は関係ないことになってしまい、話しがおかしくなってしまう。そのため、クリーンが甲子園に出るには明訓を倒す以外にないという設定が必要だったということであろう。
 作中ではどういうことが考えられるだろうか。あの発表はミスプリントで、慌てた記者か関係者が間違ってしまったということにするしかないだろう。
 それにしても、初戦で千葉同士が対戦するのは合点がいかないが、「完全にオープンで抽選した結果」という他ないだろう。

 もう一つの大問題
 もう一つ大問題があって、こちらの方が更に謎が深いかもしれない。この時代の関東大会(1976年まで)は1県1代表で、開催地のみ2校出場の計8校での争いになっていた。1970年〜1976年までは関東地区からは3校が選抜され、翌春に甲子園の土を踏むことになっているが、作中では「関東からは2校出場するんだ」ということになっている。1969年以前は実際に2校選抜であった。
 2校選抜の場合は、当然優勝・準優勝である明訓と赤城山で順当であろうが、3校選抜となると話しは変わって来る。そして、翌春の甲子園では関東からは3校出場している。3校目の選出は江川学院であった。

 江川学院の選出
 なぜ江川学院なのだろうか? そもそも江川学院は秋季関東大会に出場していない。
 実際の関東大会に出ずして選抜された高校はあるのだろうか? 実はそのような例はない。だが、他の地区ではある。1983年の秋季四国大会に出場していない徳島商が選抜された例があるのだ。徳島商は徳島大会の準決勝で敗退しているが選出され、翌春の甲子園では1勝を上げている。
 江川学院がある栃木の代表は大山高校だ。大山高校は関東大会ベスト4。更に同じく4強のクリーンは、優勝した明訓は延長13回の熱戦を繰り広げ、試合内容で大山高校を上回り関東3位に相応しいが、なぜか江川学院が選出された。
 恐らく江川学院は栃木大会の決勝で大山に負けたのだろうが、相当な悲運で負け、実際の実力は大山よりも、そしてクリーンと同等かそれ以上という評価を受けたのだろう。
 この時点での中投手はまだ控えの1年生にすぎず、遠藤監督でさえその才能に気付いていない。エースは大橋という作中では投球は描かれなかった投手で、七色の変化球を操りミラクル投手と呼ばれた人物だ。

 ミラクル投手・大橋の悲運
 いつから「ミラクル投手」という呼び名がついたのだろうか。夏の大会で活躍したのかもしれない。しかし、少なくとも直前の秋の大会でそれに相応しい投球をしたのは間違いない。あまりにも凄い投球をしたので、センバツの選考委員も大山高校やクリーン以上に「甲子園で見てみたい投手」という気持ちが働いたのであろう。
 「あまりにも凄い投球」とはどのようなものだろうか。この時代の栃木といえば作新学院の江川投手が思い出され、実際江川学院というチームのモデルであろうが、その江川投手並みの投球、またこの後の夏の神奈川大会での横浜学院・土門投手並みにノーヒットノーランを連発するようなとんでもない投球だったのかもしれない。江川投手や土門投手とは違い、変化球が凄い投手だ。
 では、そんな凄い大橋投手を擁する江川学院は、なぜ大山高校に負けたのだろうか。それも悲運の負け方だ。1989年のセンバツ決勝の東邦・上宮戦のように、土壇場で味方の考えられないようなエラーで負けたとか、1984年夏の境-法政一のように、ノーヒットに抑えながら延長でサヨナラホームランを浴びたというような内容だったのかもしれない。0−0の延長10回に味方のエラーでサヨナラ負け、被安打0、奪三振10、与四球1というのはどうだろう。延長10回、初めての走者を四球で出した後、犠打で送られ、ショートあたりが痛恨のトンネルでサヨナラ負け、というような悲劇を考えた。一方江川学院も貧打のチームだが、放った安打は散発ながら8、その他四球とエラーでの走者が一人ずつ、という感じだろうか。これなら選抜切符が舞い込んでも不思議ではない。少なくとも栃木では相当の話題を集めたのが大橋投手ということになる。
 さて、この大橋投手、センバツでは初戦の尾張一高戦で登板し、完投、勝利投手となったものの、2,3回戦は登板せず、甲子園ではこの1試合のみ。夏の栃木大会は中投手が投げられないのに青山投手という未知の投手が投げており、大橋投手の行方は分からない。春のセンバツ後、重大な故障で投げられなくなってしまったと考える他ない。甲子園では「大橋と中、この2人がいて優勝を考えない監督はいないでしょう」とまで言った遠藤監督だったが、この後の夏の大会にはその両輪を失ってしまうという悲運に遭遇したのである。